ヤマトタケル説話と鈴鹿・亀山の古墳群

後藤 裕文 (1987年01月号)

  鈴鹿川の流城地帯は、古墳文化の一大中心地として知られています。又奈良時代には、伊勢の国の国府もここに置かれ、国分寺の跡も残っていて、政治文化の中心でもありました。その奈良時代に書かれた日本最古の史書・古事記に登場する大和国家統一期の伝説的英雄として有名な倭建命(やまとたけるのみこと)の臨終の地ともされています。
  古事記によると、景行天皇の皇子として生まれたミコトは、たぐい稀な勇武のために、たえまない遠征にかり出されるのですが、その最後の東国遠征の帰途、伊吹山で遭難し、「三重の匂(まがり)なす」(三重の地名のおこりという)足を引きずりながら、故郷の大和へと急ぎます。途中苦しさのあまり杖にすがり(四日市南郊に杖つき坂の地名が残る)、鈴鹿の一角で笠も捨て、ついに能煩野(のぼぬ)で倒れます。
  ミコトの死が大和に報ぜられると、かけつけた遺族たちによって大きな塚が築かれます。そして、この塚の前にひれ伏し、嘆き悲しむ人々の眼の前に、一羽の大きな白鳥が飛び立ち、天空高く飛び去ってゆく。・・・・・・これが古事記の語るミコトの臨終の有様なのですが、さて、このミコ卜をまつる塚はどこにあるのでしょうか。
  平安時代に成立した延喜式には「能符野墓」の名をかかげ、伊勢国鈴鹿郡にあって2町四方の境城を持つ広大なものだと記録しています。現在鈴鹿市加佐登(かさど)にある加佐登神社はミコトが死の直前に笠を捨てたことにちなむ「御笠殿」に由来するもので、本居宣長は、この神社に隣接する巨大な古墳こそそれである主張しました。この古墳は直径東西78m、南北60m、13.3m、県内最大の円墳で、一部に葺石(ふきいし)を残す荘大なもので、ミコトの伝説にちなんで、「白鳥塚」と名づけられ、現在史蹟に指定されています。
  しかし、もともとこの地域には古墳が多く密集し、又ノボノが広大であるため、ミコトの陵墓についても、さまざまの説が唱えられて来ました。例えば、亀山藩では、領内長沢の式内社・長瀬神社の境内にある「武備(たけび)塚」をそれと指定し、200平方mの土地を寄進して、その保存をはかっています。又文人・建部綾足(たけべあやたり)は、この地を訪れて、ミコトがよんだという片歌「はしけやし吾家(わぎえ)の方(かた)より雲居(くもい)たちくも」を刻んだ歌碑を立て、これを顕彰しました。
  ところが、明治12年、時の内務省は現亀山市川崎の大塚(丁子塚)をミコトの陵墓に指定しました。この塚は、鈴鹿川沿岸地帯で最大の規模をもつ前方後円墳で、全長90m、後円部の高さ9.5m、周溝をめぐらし、周辺には16基の培塚をようする壮大なものです。埴輪も出土しており、その形状が、前期の前方後円墳の特色を示す点から、これこそ、あのロマンにみた英雄ヤマトタケルの墓にふさわしいと判断したからでありましょう。
  今や歴史学の世界で、ヤマトタケルの実在そのものが疑問視される今日、その陵墓を特定することは所詮無理なことかもしれません。しかし、かつてドイツ人・シュリーマンが、ホーマーの詩篇を信じて、トロイアの遺跡を堀り当てたような夢が、今の世にあってもいいのではないでしょうか。


三重ところどころ 1987年